マルコ福音書 14章32~42節(2)イエスの祈り
2022年3月24日
(内容)
- ゲッセマネの園におけるイエスの祈り。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますようにと祈られた。
(黙想)
- この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにとイエスは祈られたとの説明がある。そして具体的な祈りとして、「アッパ、父よ・・・・・」とイエスが祈った祈りの言葉が書かれている。
- イエスは最初に「アッパ、父よ」と呼びかけている。この「アッパ」は、幼い子供が父親を呼ぶときの言葉と言われている。それだけイエスと父なる神の関係が親しいこと、イエスの父への信頼が現されている。
- そして「あなたは何でもおできになります」と祈られた。これは父なる神の全能を告白したというよりは、イエスがこれから直面しようとしている苦しみを避け、別な救いの方法があるのではないか、あるはずだ、それを実行して欲しいとの含みのある言葉である。この思いは、「この杯をわたしから取りのけてください」との祈りに現れている。杯は、神の裁きを示している。このことをイエスが理解しているなら、自分が神の裁きを受けることを知っていることになる。
- 自分は神の救いの業として自分の命をささげることになる。そのために自分は神の裁きを受ける。その裁きとは具体的にどんなものなのか、それはわからない。苦しみの時が過ぎ去るようにとの祈り、杯を取りのけてくださいとの祈り、それは神の裁きを受けないですむようにとの願いである。神は何でもおできになるのだから、別の方法で救いのみわざをして欲しいとイエスは願った。
- この裁きを思い、イエスは恐れもだえられた。
- しかしその直後、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われるようにと祈られた。父なる神への従順を貫く覚悟でいる。自分の身において自分が願うことではなく、神の御心が行われることを願っている。自分の身に自分の願うことが起きることを人は願う。しかしイエスは違う。言い方を変えるとイエスは自分自身を神に献げていると言える。そして苦しみの中に向かう。「時が来た。立て、行こう」。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>父なる神に従順な方
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日はイエス様が苦しみ祈る場面を読みました。自分の身において、自分が願うことではなく、御心が行われるようにとの祈りは、切ない祈りであると思います。しかしあなたへの従順を示す祈りです。
- 私もかつて小さな事ですが、それをすることがあなたの御心に適うことだと思いながら、それをすることを避けたいという強い思いを持ったことがあります。他の方法があるなら、それに従いたいと思ったことがありました。思い切って御心に従う道を歩み、それでよかったと思ったことがあります。わたしの体験はささやかなもので、イエス様の今直面している苦しみとは比較になりません。
- このイエス様の苦しみが何のための苦しみであったのかを覚えなければなりません。私たちを罪から救うためのものです。それは私たちを罪の支配から解放するものです。イエス様の十字架の犠牲は、罪の赦しだけではなく、罪からの解放をもたらすものです。あらためてそのことを伝えたいと思いました。
- 近いうちにブログに書きたいと思います。そのために少し思いめぐらします。
☆与えられた導き
- イエス様の救いは罪からの解放をもたらすことをブログに書く