マルコ福音書 14章22~26節 パンと杯

2022年3月18日

(内容)

  • 過越の食事の中で、主イエスはパンを裂き、弟子たちに与え、また杯を与えた。弟子たちに与えられたパンはイエスの体であり、杯のぶどう酒はイエスの血とされる。

(黙想)

  • イエスはパンを裂き、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われ、弟子たちに与えた。弟子たちはそれを食べた。弟子たちはどう思ったのか。この時点では、パンを食べることの意味は分からなかっただろう。イエスが食べなさいと言うので食べた。でも印象的であったにちがいない。
  • 後なってに裂かれたパンは十字架で槍を刺されて裂かれたイエスの体であることを理解した。イエスは救いの業を果たすために死んだことを弟子たちは理解した。では私たちが礼拝の中でパンを食べる意味は何か。イエス・キリストが身を犠牲にして私たちに備えてくださった救いを確認し、受け取ることだろう。
  • 杯について、イエスは「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」と言われた。弟子たちは意味は分からないままに杯から飲んだ。後になってこれは何を意味しているのか考えたにちがいない。イエスは何のために十字架で体が裂かれ、血を流されて死んだのか。
  • 手がかりは旧約聖書にある。血については三つのことを考えることができる。
  • 第一に時期が過越祭の時である。イエスは神の小羊として死んだ。出エジプトの出来事において、イスラエルの民は小羊を屠り、小羊の血を自分の家の鴨居に塗った。それによりイスラエルの民は災いを逃れることができた。神の災いはイスラエルの家を過越たのであった。そしてイスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放された。小羊の血はエジプトからの解放をもたらした。イエスの血は、罪からの解放をもたらしたという意味があるのではないか。
  • 第二に律法には罪の赦しを得るために、犠牲の動物をささげることを定めている。いけにえの血が流され、いけにえを献げた者の罪が赦された。血は罪の赦しを意味する。イエスの血は私たちの罪の赦しをもたらす。
  • 第三に血は契約の血と言われる。旧約において契約とは、神がイスラエルの民の神となると約束し、イスラエルの民が神の民となると約束した。これが契約である。イスラエルの民が神と契約を結んだとき、民の上に血が振りまかれた。
  • イエスの血による契約は神とイエスを信じる者との間の契約であり、内容は旧約の契約と似ている。神はイエス・キリストを信じる者に罪の赦しと永遠の命を約束し、さらにあなたの神となると約束される。イエス・キリストを信じる者は、罪の赦しと永遠の命を感謝し、神の子として生きることを約束する。イエスの血はこの契約を確かなものとする。
  • これらを考慮すると、イエスの血は私たちを罪の支配から解放し、罪の赦しを与え、神の契約を保証することとなる。パンとぶどう酒を飲むことによって、その都度、我々は血の意味を確認することとなる。イエスはこの儀式を残された。マルコ書には書かれていないが、教会はイエスの記念としてこれを行ってきた。

ルカ 22:19
またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

  • イエスは何のためにこの主の晩餐と言われることを行ったのか。ご自分の死が何のための死であったのか、それを覚えさせるために印象的な儀式を行ったと思われる。イエスの死の意義・意味を言葉で教えるのではなく、儀式によって伝えようとしたと思われる。
  • しかし儀式は繰り返されているうちにマンネリ化しやすい。形式的になる可能性がある。これには注意しなければならない。この儀式の大切さを口にするなら、この儀式の意義、イエスの死の意味をきちんと伝えなければならない。十字架の死を通して与えられる救いを自分のものにすることが大切である。
  • この箇所には不思議な言葉がある。「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とイエスは語る。これは何を語っているのか。イエスはまもなく十字架上で亡くなる。捕らえられ裁判にかけられ、十字架にかけられる。ぶどうの実から作ったものを飲む機会は、ない。それなのになぜ、この発言か。
  • イエスはどんな思いでこの言葉を語ったのか。地上で弟子たちと食卓を囲むことはもうないと語ったのか。弟子たちはまもなくイエスの十字架の死に直面する。イエスの死ですべてが終わることはないと弟子たちに教えているのか。
  • 「神の国で新たに飲むその日」とあり、イエスは神の国に言及する。神の国での食事で飲むことを語っているのか。イエスは一人で飲むわけではなく、神の国に迎えられた人たちと共に飲むだろう。イエスの死は神の国につながっている。敢えて言えば、神の国の祝宴。
  • マタイ福音書では、イエスはこう語っている。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(26:29)。
  • 地上で弟子たちと食事を共にすることはもうないと告げ、ご自身の死が近づいていることを語りつつ、神の国での再会を弟子たちに告げているのか。この言葉を語ったイエスの真意は何か。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは弟子たちに裂かれたパンと杯を与え、ご自分の死の意味を伝えようとした。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>イエスの死の意味をわきまえること。パンと杯にあずかるごとにイエスの死の意味、私たちに与えられている救いが何であるかを確認すること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、最後の晩餐の記事を読みました。イエス様はどのような思いで、弟子たちと過越の食事、最後の晩餐の時を持ったのかと思います。裂かれたパンは、わたしの体、杯に入ったぶどう酒はわたしの血と言われ、ご自身の死を意識した言葉となっています。御自分が何のために死ぬのか伝えたかったと思います。
  • あらためて思うことは、過越祭の時をイエス様は選ばれました。そして過越の小羊としてイエス様は死なれました。過越の小羊の血により、イスラエルの民はエジプトにおける奴隷状態から解放されました。あらためてイエスの死が私たちを罪から解放することに関係していることを思います。
  • 天の父よ、福音書の中で、イエス様は罪を赦す権威を持っていることは明言されていますが、罪からの解放については言及がないように思います。しかしあなたの御子が命を犠牲にされたからには、罪の赦しだけではなく、罪からの解放が救いとして含まれていると考える方が自然だと思います。
  • 旧約聖書では罪のあがないのために動物の犠牲が献げられましたが、動物の犠牲は人間の心を変えることはできませんでした。人間の心を清めることはできませんでした。しかし御子の犠牲はそれを可能にすると考えてよいと思います。天の父よ、どうですか。
  • 今日は受難節の黙想として、ここに書いたことをブログに書きたいと思います。
☆与えられた導き
  • 聖餐の意味についてブログに書く