第二コリント 12章10節 わたしは誰なのか
2022年1月22日
(内容)
- それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(黙想)
- パウロは伝道活動の中で侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを体験した。しかし彼は伝道をやめなかったし、中止もしなかった。伝道を続けた。伝道は自分の力によって行う業ではなく神のみ業であり、神のみ業に仕えるのである。だから、困難な状況の中にあっても、パウロは伝道を続けた。
- しかもパウロは、困難な状況の中にあっても満足しているという。ほかの聖書では「甘んじる」(口語訳)と訳している。甘んじるとは、あたえられたものを満足して、またしかたのないものとして受けるとある。あるいは「喜んでいる」(聖書協会共同訳)。
- パウロのことを考えるなら、パウロは、困難な事態を肯定的に受けとめていると考える。つまり仕方のないこととして受け入れるのではなく、むしろ積極的に受けとめている。つまり喜んで受けとめるし、幸福だと受けとめると考えたい。
- キリストのために満足していますとある。パウロはキリストのために生きている。キリストに仕えて生きている。パウロとは、キリストのために生きているパウロであり、キリストに仕えているパウロである。
- キリストに仕えるパウロは困難な状況を満足できる。キリストの力が現れるからである。パウロはキリストに仕えているという視点で物事を考え、受けとめる。
- 私たちは、自分を第一にして考える。パウロのような立場だったら、その苦しい状況を、私はどう受けとめるかと考える。パウロの場合の私は、キリストに仕える私、キリストのために生きる私である。私たちの場合は、単なる私、つまり自分が第一、自分中心の私である。私はどうしたい、私はどう受けとめる、私が中心である。信仰者であっても、自己中心であることは多い。これは利己的ということではない。何を基準にして物事を考えるかを考えている。パウロはキリストに結ばれている私、という点から物事を考える。
- 私たちはどうなのか。信仰を持つ私はどんな私なのか。どんな私として生きようとしているのか。パウロのようにキリストに仕える私、キリストのために生きる私、と自分が信仰者としてどのように生きるのかを明確化しているのか否か。
- 自分がどんな私なのか規定する言葉がないなら、私がどう思うか、私が出発点となる。それは言い換えると私が神となることでもある。実際には神ではないから、さまざまな悩み、煩悩が生じる。たとい自分が信仰者といえども、古い人、肉の私にとどまる可能性が大きい。
- 言い換えるとキリスト者としてのアイデンティティーをはっきりさせることが大切であり、それによって物事の受けとめ方が違ってくるし、キリスト者は逆境に遭っても前向きに生きることができるし、パウロのように満足していると言うことができる。
- キリストと自分の関係はどうなっているのかを明確にすることが大切だ。明確にしても、その通り自分が生きているかどうかは疑問が残る。でもその関係に生きていきたいと願う気持ちは大切であり、明確にすることは大切だ。
- 私は弱いときにこそ強いと言えるのはすごいことだと思う。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>パウロのキリストのために満足する生き方
- <教え>私は弱いときこそ強い。この信仰に生きる
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を思いめぐらし大切なことを教えられました。私は自分を起点として物事を考えていたことです。聖書を読み、聖書を思いめぐらし、あなたの導きを求めますが、それは何の前提もない「私」なのです。私は神の子とされていることを信じ、キリストを信じ、キリストに従い、キリストに仕えることに心を用いています。その私は自分の弱さを覚えることがあります。そして心は揺れます。私は神の子とされているけれども、心は揺れるのです。それは「私」が何の前提もない私、信仰を持ってはいますが、言ってみれば裸の自分が生きようとするからです。
- パウロの言葉を読み、教えられました。私とは、神の子とされた私であり、キリストに頼る私であり、キリストに従う私であり、キリストに仕える私なのです。このような私であることに立って物事を考えることを教えられました。弱さを覚えるときに自分は強いと言えるのは、自分が誰かを知っているからです。信仰者といえども裸の自分では強いとはなかなか言えないことを思います。
- 今日から私は、自分のことを神の子とされた私、キリストに結ばれた私と考えることにします。
- そして老いをどう生きるのか、時に憂うつになる自分がいますが、それは裸の自分です。無前提の私から出発して考える私です。弱い自分です。弱い自分から出発するから、気持ちは変化します。神の子の私なら、老いをどう受けとめるのでしょうか。考えてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 自分のことを神の子とされた私、キリストに結ばれた私とする
- 神の子の私として老いを考える。