マタイ福音書 26章57~68節 イエスの前で頭を垂れる
2021年3月23日
(内容)
- イエスは大祭司カイアファの家に連れて行かれ、裁きを受ける。しかしイエスを死刑にする口実は得られない。イエスが御自分が人の子で神の右に座し、天の雲に乗ってくる」と語った時、これは神を冒とくする言葉であるとして、イエスは死刑との判決が出た。
(黙想)
- 注目するのはイエスを死刑にしようとたくらむ人たちの存在。イエスはメシア、救い主として来られたのに、信じることなく逆に殺そうとたくらむ。なぜか。律法学者たちはイエスから偽善者と批判された。またイエスが律法を破っているのではないかとの疑念を抱き、イエスを神を冒とくする者として殺そうとした。同じ神を信じ、同じ聖書を読んでいながら対立が生じる。神を信じながら神が遣わした救い主を信じることができない。人は自分が信じることができるものを信じるという傾向がある。私たちにも同じ傾向がある。
- 人はどうしても自分の立場を擁護したくなる。それゆえ、自分と立場や意見が違う者とは対立しがちである。しかし事は真理に関する。イエスはメシア救い主なのか否か。この世の事柄については色々な見解があって当たり前である。立ち位置が違えば見方が異なり意見も異なる。しかしイエスがメシアであるか否かについてイエスかノーかどちらかである。そしてノーという人がいる。神を信じる人が。そしてイエスを殺そうとさえする。
- 自分に固執してはいけない。真理の前に常に心を開いていなければならない。キリスト者の間でも聖書の理解をめぐって意見の違う人がいる。かくして色々な教派ができたりする。互いの意見、立場の違いを認め合い、それぞれの立場で信仰に励むことになる。自分を絶対化してはいけないことを教えられる。しかし真理が何通りにも解釈できるとは思えない。
- ペトロは「遠く離れてイエスに従い」とある(58節)。「遠く離れて」というのは象徴的である。イエスのすぐ後ろに従うのではなく、遠く離れて。それは様子を見ながら従うことでもある。事情によってはすぐに離れることもできる。「遠く離れて従う」、これは中途半端にイエスに従っていることを示すような言葉である。そして注意しないと我々もそうなってしまう。遠く離れていれば、イエスに従っている姿が人には見えない。証しにならない。
- 大祭司は「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。勿論イエスが「そうだ」と答えても大祭司たちは信じはしない。神を冒とくする言葉を引き出したいのである。そのときイエスが言った言葉がある。「人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」。
- これは思いがけない言葉である。イエスは自らを人の子と名のり、神の右に座っているという。これは自らを神とする言葉といってよい。さらには、雲に乗ってくると言う。
- 人の子が雲に乗るというのはダニエル書7章13節。ダニエル書の場合は、人の子は雲に乗って「日の老いたる者」の前に来るとある。イエスは雲に乗ってこの世界に来ると言っているかのようである。すでに25章で人の子は天使たちを率いて来られ、裁きを行うとイエスは語っている。
- しかし人であるイエスの口から、このような言葉が出てくるのは驚きである。なぜこのような言葉が出てくるのか。マリアから人間として生まれたイエスであるが、自分と父なる神との関係を何らかの形で知っていたと考えられる。そこから生まれた言葉と考えることができる。ヨハネ福音書でイエスは、自分が天の父のもとから来て、天の父のもとへ帰ると語っている。
- 神の右に座し、再び来るとの発言はイエスが神の御子、救い主であることを宣言する言葉でもある。これを神を冒とくする言葉と考えるのは、逆に神を冒とくすることとなる。神を認めないのだから。
- イエスはご自分が何者かをここで語っている。神の右に座す者、雲に乗ってこられる方。このイエスは、私たちのよく知らないイエスかもしれない。羊を顧みる羊飼いのイメージとはほど遠い。イエスは畏敬の念をもって迎えるべきお方である。聖書を読み、地上を歩むイエスの姿を見ていると、我々に親しみやすい人間イエスを思う。しかし今日の聖書の箇所のイエスは、威厳を持ったイエスである。
- そしてイエスは人々からあざけられ侮辱され、人々のなすがままにされている。これほどまでに低きに降り、人間の救いのために命を犠牲にされる方が、天の父の右に座す方である。ただ偉ぶって神の右におられるのではなく、徹底的に低きに降られたお方である。この方が天の父の右に座しておられる。
- どう受けとめるのか。この方を私は主と崇める。この方こそ、ひれ伏して崇めるべきお方である。この方の前に頭を垂れて崇めるお方である。この方の語ることはすべて信じ受け入れるべきお方である。イエスの前に頭を垂れること。
(聖書に聞く)
☆神はいかなるお方
- <御子>神の右に座すお方
- <御子>人々から罵られ、あざけられるほどに低きに降るお方
☆神が私たちに求める生き方
- <罪>自分を絶対化し、物事を考えること。自分を批判的に見ないこと。謙遜さを持たないこと。
- <勧め>イエスを崇めるべき方、そのみまえに頭を垂れるべき方として受けとめる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日の聖書で印象に残ったのは、イエス様が御自分がいかなるものであるかを語られたことです。イエス様は神を冒とくしたのではなく、イエス様を信じない者こそ、神を冒とくしたのです。そして私たちも案外、神の右に座し、畏れ敬うべきイエス様をきちんと考えない傾向があるのではないかと思います。神さまは私たちのためにおられるという考えが根強く私たちにはありますし、それが説教などで福音として語られることもあります。それは間違ってはいませんが、不十分です。父なる神であるあなた、御子イエス・キリストは共に私たちが恐れ敬うべき神です。このことをあらためて思いました。私はイエス様を崇めるべき方、そのみまえに頭を垂れるべき方として受けとめます。
- 祭司長たちは律法学者たち、イエス様を死へ追いやった者たちはあなたを信じていますが、自分の信仰を絶対化し、イエス様を信じることができませんでした。私たちの心にも自分を絶対化する傾向があります。つまり自分が信じられないことは信じないのです。イエス様を信じる者は永遠の命を受け取るとの福音を人々は信じます。それは裏返せば、イエス様を信じなければ永遠の命を受け取ることはできない、つまり永遠の滅びに入れられるということです。永遠の滅びを真剣に受けとめないことから、伝道が盛んにならないという面があると思います。信仰が地上の生活だけに適用されてしまっています。結局終末の事柄が真剣に受けとめられていません。これは私のことです。だから、どうしたら終末の事柄を真剣に受けとめることができるのか、私の課題でした。
- 今日は、私が真剣に考えてこなかったことが示されました。イエス様はあなたの右に座しておられる方であるということです。神の右に座すお方が終末の事柄を語っているのです。イエス様を敬い畏れるべき方として信じ、この方の前に頭を垂れる方と告白し、イエス様の言葉を全面的に信じ受け入れることができるように導いてください。
- 今日は、イエス様を畏れ敬うべき方として描いている聖書の箇所を列挙して信仰の助けとしたいと思います。
☆与えられた導き
- イエス様を畏れ敬うべき方として描いている聖書の箇所を列挙する
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マタイ 25:31~46
フィリピ 2:6~11
テサロニケ二 1:6~10
ヨハネ黙示録 1:12~18
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