第一コリント 13章9~12節 顔と顔とを合わせて
2021年2月5日
(内容)
- 今は鏡におぼろに映ったものを見ているが、そのときには、顔と顔を合わせてみることになる。今私たちの神に対する知識は一部であるが、御国が来た時には、完全となる。
(黙想)
- 10節「完全なものが来たときには」と12節「だがそのときには」と二つの「とき」に言及している。いずれも終末、御国の到来を意味している。私たちは地上の生涯を生きているが、地上の生は肉体の死をもって終わる。聖書は、別な「時」に私たちが生きることを教えている。「完全なものが来たとき」である。その時私たちは復活をする。
- 地上に生きている時、わたしたちは鏡におぼろに映ったものを見ている。これはどういうことか。一つには神の支配。私たちは神がこの世界を支配しておられると信じている。私たちの生が神の御支配の中にあることを信じ、神を信頼してこの世の歩みをする。この神の御支配を私たちはぼんやりとしか見ることができない。私たちは時として、神の御支配は本当にあるのかと疑うことがある。そのような状況に直面することがある。神の御支配を信じていても、神の御支配はぼんやりとしか見えない。
- あるいは神の御心。神の御心を聖書から知ることはできるが、すべてを知ることはできない。私たちの生活の中で、神の御心がどこにあるのか分からないときもある。神のみ心に従って生きようとしても、何が御心か、必ずしも知ることはできない。私たちは、これが神の御心と信じて生きるしかない。私たちは神の御心をぼんやりとしか見ることができない。
- あるいは神の計画。神はこの世界に対してどのような計画を持っているのか。全人類を救うという神の計画がある。聖書にはその計画の一部書きされている。イスラエルの歴史、イエス・キリストの出来事。これらのことは私たちは知っている。人類の歴史がどのような道筋を辿って終末に向かうのか、私たちは知らない。
- 大切なことは、「完全なものがものが来る」「そのときが来る」ことである。この世のものはすべて過ぎ去って新しい世界が来るということである。滅び行くもの、廃れてしまうものと滅びることのない区別は大切である。愛は滅びることがないとパウロは語った。
- その時の到来は、私たちにとって完全な救いのときであり、何よりも「はっきり知る」ことになる。神のご計画が真実であったこと、何よりも神ご自身が本当にすばらしい方であることを知り、神の栄光を仰ぐこと、そして自分自身が復活し、キリストに似た者とされ、神の国の一員とされる。この途方もないことを信じる時、この地上の歩みで自分に与えられた例の賜物を自慢することなど小さいこととなる。神の愛により救われ、神の愛に生かされてきたことをはっきりと知り、神の愛の輝きに目を奪われるその時が来るのである。
- ここに私たちの真の希望があり、このことを信じる。何を信じるかによって、考え方が変わり、価値観が変わる。パウロは終末を見て、今を生きることを教えている。それは教会の問題の解決にもつながる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)終末の時が来る。
- (教え)終末が到来すると顔と顔を合わせて見るように神を見ることができる。
- (教え)終末の到来は、救いの完成をもたらす。愛は滅びないことを知る。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、終末を考えることはキリスト者にとって大切であることを教えられます。何を大切にして生きるかが教えられますし、どのように神の国の希望に生きるかを教えられるからです。キリスト者として生きる中で、愛を大切にすることを教えられてきました。終わりの日の裁きを思い、神さまの御心に従うことも心がけてきました。
- そして今日もまた終末の時に起きることを期待し、御国への希望をたしかにすることを教えられました。今日の聖書の箇所は顔と顔を合わせて神を見る希望を教えられます。これがどういうことか定かではありませんが、神さまを信じて本当によかったという喜び、感激があり、神さまの栄光を仰ぎ、賛美があふれてくるのではないかと思います。神さま、「顔と顔とを合わせて見る」ことを希望として生きていきます。この告白を日々祈ることにします。
☆与えられた導き
- 「顔と顔とを合わせて見る」ことを希望とすると日々告白する。