ヨハネ福音書 9章35~41節
2019年11月7日
(内容)
- 目が見えるようになった盲人は再びイエスに出会い、イエスを信じた。そしてイエスは自分がこの世に来た目的を告げる。裁くため、そして見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになるため。
(黙想)
- イエスが盲人の目を見えるようにした奇跡物語は、ヨハネ福音書においては比喩(たとえ)ということができる。イエスは見えない者を見えるようにする方であることをしめすたとえである。何を見えるようにするのか。それは神のみ業を見るようにすることである。つまり神はイエスを遣わされた、それを認めるか、である。イエスは盲人の目を見えるようにするという奇跡を行った。これはイエスが神から遣わされたしるしである。イエスを信じるに足る理由がここにある。
- ファリサイ派の人々は、神を信じているが、神のみ業を見ようとしない。神を信じていながら神のみ業を見ようとしない、それは見えると主張しながら見ていないことである。そこに罪があるとイエスは語る。
- ここでは罪とは、神の戒めに背くという不従順を指してはいない。神を信じている者が神のみ業を見ようとしない、神の出来事に心を開かない、それが罪だという。神は救い主を送ったのに、その救い主の働きを認めず、救い主を信じようとしない、それが罪である。これは信仰者の犯す罪である。神の啓示を受けとめない罪。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)御子は裁くために世に来られた方である。イエスをどう受けとめるか、それによって人は自らに裁きを招く。ファリサイ派の人々は、信じないという罪を犯している。
☆神が私たちに求める生き方
- (罪)「見える」と主張すること。自分は神を信じていると主張しながら、神のみ業に対して心を閉ざし、神のみ業を見ないこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ファリサイ派の人々の罪を思います。神さまの御業に対して心を閉ざしながら、なお自分は神を信じている、神の前に正しく生きていると主張する信仰者の罪を知らされます。人は誰だって自分が間違った歩みをしているとは思いたくありません。
- ファリサイ派の人たちは、信仰者であり、律法を守っていると自負している人たちでした。自負があるゆえに、自分を変えることに困難を感じるのだと思います。でも大切なことは、神の出来事を前にしたとき、自分がどう対応するかです。盲人はイエスを預言者と告白し、イエスを信じました。
- ファリサイ派の人はイエスが盲人の目を開いた出来事を知りながら、この事実に目をふさぎました。私たちも、自分の信仰的な立場にこだわり、あなたのみ業に対して心を閉ざすことがあると思います。信仰のことはよく分かっているとの誇りが神のみ業を見えなくすることがあります。
- 特に私が懸念するのは、福音を宣べ伝えるはずの説教者たちが、福音をきちんと理解していないということです。福音を罪の赦しに狭く限定して理解していることです。そこには罪から解放され、罪に打ち勝ち、愛に生きていく積極さが見られません。それでは伝道できないと私は思っています。
- この問題は、すぐに何かできるということでありません。私は牧師の働きから引退した身です。誰かがこのことに気づき、この問題に取り組めば良いのです。取り組む人が増えれば良いのです。私はきっかけを与えることができればいいのです。そう思いました。ブログで折に触れて語っていきたいと思います。私自身、自分の信仰をたしかにするために福音とは何か、教理の観点から再確認したいと思います。勉強をします。
☆与えられた導き
- 福音とは何か、教理の観点から再確認する。学び直しをする。ハイデルベルク信仰問答で確認する。
- この問題に気づく人が増えるように祈る