ヨハネ福音書 6章34~40節(1)

2019年8月13日

(内容)

  • イエスは命のパンであり、イエスを信じる者の飢え渇きをいやされる方である。また父なる神は、イエスを信じる者をイエスにお与えになる方である。

(黙想)

  • イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた。人は何に飢え、何に渇くのか。イエスはサマリヤの女性に対しても、わたしの与える水を飲む者は決して渇かないと言われた。
  • 僕にとっては、自分の生きる意味、生きる目的がわからない状態、それが飢え渇いている状態だった。あるいは自分の存在を肯定できることが飢え渇きを覚えないことでもあった。イエス・キリストを信じ、生きる意味、目的が与えられた。牧師になってから、たった一人の人が神さまの愛を知れば、僕の生きる意味は達成されるのではないかと考えたこともあった。また欠けの多い自分の存在を受け入れることもできるようになった。その意味で、信仰によって、生きる出発点に立つことができるようになったと言えるかも知れない。迷える小羊が自分の主人でる羊飼いを知り、羊飼いに従うことによって安心して生きていけるようになったと言える。
  • ではもう飢え渇いていないと言えるのか。言えない。渇いている。イエスは言われた。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」。義は正義とも訳せる。この世は不正だらけとも言える。イエス・キリストを信じる者に与えられる義は、神との間の平和でもある。人と人と間の平和、これは義とされた人が求めるものである。人間関係で苦しんでいる人は多い。虐待、DVも平和がない、義がないことの現れである。だから、信仰者は平和の実現を目指す。それは平和運動ではなく、人と人との間の平和を目指すことであり、それは福音なしには達成できない。人々の間に平和を生み出すために遣わされる人もおり、福音を伝えるために遣わされることもある。僕自身の歩みは、福音を伝えることに重点を置いてきたことは確か。紛争のあるところに平和をもたらすために出かけることはなかった。
  • あと一つ、イエス様は私たちに聖霊によって洗礼を授けると言われている。これが何を意味するのか、知りたい。もし受けていないなら受けたいと思う。これも一つの飢え渇きと考えている。
  • イエスはユダヤ人たちに「あなたがたはわたしを見ているのに信じない」と咎める。それと同時に「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」と言われた。では父なる神は誰をイエスにお与えになるのか。父なる神はイエスを信じる人と信じない人を定めているのか。自分はイエスを信じない人に定められるということがあるのか。神学的には予定論となる。聖書の信仰は複眼的に考えることが必要である。
  • つまり父なる神はだれがイエスを信じる人を定め、その人をイエスにお与えになる。これが一つの真理である。あの人はなぜイエスを信じないのか、と言われたら、神さまが信じるように定められていないから、それが答えとなる。
  • 信じないように定めるなんてひどいではないか、と言う人に対しては次の真理がある。信じるか信じないかは個人の決断による。これも真理である。イエスが「あなたがたはわたしを見ているのに信じない」という時、イエスを見て信じるか信じないかは、その人の決断によることを意味していると思う。この二つの真理を同時に見る、それが複眼的思考である。物事には色々な側面がある。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)35節。イエスは命のパンであり、イエスを信じる者は飢え渇くことがない。
  • (御父)37節。父なる神は、誰がイエスを信じるか否か、お定めになり、信じるように定められた人はイエスのもとに来る。イエスを信じる。
☆神が求める私たちの生き方
  • (勧め)35節。飢え渇きを覚える人はイエスのもとに行くこと。
  • (約束)35節。イエスは、私たちの飢え渇きをいやすと約束される方である。
  • (教え)37節。私たちがイエスを信じるようになったとするなら、それは神がそのように定められたからであり、それは神さまの恵みによると考えることができる。
  • 私たちは、自分が信じる決心をして信じた、と言うかも知れない。それはその通りである。でも物事には色々な側面がある。自分が信じる決心をした、その通り。しかし神に選ばれている、恵みの選び、それもその通り。だからイエスは語った。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。人間の決断、行為には、神の恵みという側面もある。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様はまことに命のパンなるお方です。イエス様のおかげで、私は心の飢え渇きをいやされました。生きることが喜びとなりました。感謝です。救い主なるイエス様に感謝し、イエス様を崇めます。イエス様が私の飢え渇きをいやしてくださった、そのことを証しする文章をブログに書き、感謝の気持ちを現したいと思います。
  • 同時に私は義に渇いています。平和の実現のために生きる者でありたいと思いました。福音が世界中にあまねく宣べ伝えられることを願います。世界の紛争の地に争いが終わることを願います。
  • 今、祈りを求められている方たちの心の平和のために、継続して祈っていきたいと思います。
  • 聖霊による洗礼については今一度ロイドジョンズの本を読み直してみたいと思います。今回は著者の主張をまとめながら読んでいきたいと思います。
☆与えられた導き
  • 証しの文章を書く
  • 執り成しの祈りを続ける。
  • ロイドジョンズの本を読みなおす。