ヨハネ福音書 3章22~30節
2019年6月20日
(内容)
- 洗礼者ヨハネのもとにある人が来て、イエスが洗礼を授け、イエスのもとにみんなが洗礼を受けに行っていると告げた。するとヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と答えた。
(黙想)
- 今までヨハネは多くの人に洗礼を授けていた。しかしイエスも洗礼を授けるようになり、みんながイエスの方に行っている。「ヨハネ、あなたはどう思うの。悔しくないの」と野次馬は言うかもしれない。誰だって自分の働きにおいて、より多くの成果を上げたいと願うにちがいない。
- 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。これは人が口にしたくないセリフである。自分が衰えるのを承認するのは、なかなかできない。人は自分と他者を比較し、悩むのが常かも知れない。
- しかしヨハネは、自分が何者かを知っている。自分の後に来る方を証しする、それが神から与えられた彼の使命である。彼は別の使命を神から与えられているわけではない。イエスはイエスの使命を神から与えられている。だから比較する必要はない。
- 使命に生きるとは自分の命を使うこと。神から与えられた使命は神に仕え、神の栄光を現すこと。自分の栄光を求めることではない。自分の栄光を求めたいとの誘惑は常にある。
- ヨハネは、イエスの活動を聞き、喜ぶ。メシアと証しをした人が活動をしていることを聞いて喜んでいる。喜びで満たされているとさえいう。自分は何を喜ぶのだろうか。信仰者として何を喜ぶのだろうか。
- 喜びということでは、気になる聖句が一つある。ペトロ一1章8~9節の言葉。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。
- 言葉では言い尽くせないすばらしい喜びで満ちあふれるという体験は僕にはない。そして魂の救いを受けているとこの喜びがあるという。魂の救いとは何か。ヤコブの手紙には
「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とある。 - しかもヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という。イエスが栄えることをヨハネは喜ぶ。隠退した牧師は衰えねばならないのか。大切なことは主イエスが崇められることであり、そのために仕えることは誰にでもできる。隠退牧師は現役の牧師とその働きは自ずと違ってくるだろう。その働きも限られてくるだろう。現役の牧師たちが主に仕えていることを喜ぶように勧められているのかも知れない。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (模範)27節。ヨハネはイエスと自分の働きを比較することはしない。
- (模範)ヨハネはイエスの働きを喜んでいる。他の人の働きによって、イエスが宣べ伝えられ、崇められることを喜ぶことが大切だ。隠退した牧師としては、現役の牧師を覚えて祈る時、彼らの働きを喜んでいい。
- (教え)人はその働きにおいて衰えることのあることを知ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ヨハネは自分の使命、役割を果たしました。イエスが洗礼を授け、皆イエスのもとに行っていることを聞いても、ヨハネは動揺しませんでした。人は自分の業績にとらわれるものですが、ヨハネは自分の使命を弁えていました。
- 私も現役としての牧師の務めを終えたことをわきまえたいと思います。だからといって福音宣教の働きのすべてから手を引くのが御心であるとは思いません。神さまはなお役割を与えてくださると信じ、それを果たしたいと思います。
- 今日は、ヨハネがイエス様の働きを喜んでいることに心が留まりました。信仰者は何を喜ぶのかを教えられます。他の人の働きによって、イエス様が宣べ伝えられ、崇められることを喜ぶことが大切と教えられます。隠退した牧師は、しばしば現役牧師の働きを批判します。それは間違いで、現役の牧師を覚えて祈る時、彼らの働きを喜びたいと思います。
- そして今、教会が高齢化し、若い人が少なく、先行きが危ぶまれる現実の中にあって、伝道が盛んとなるように、伝道のために献身し、神学校に行く人が生まれるように、神さまの助けを祈り続けたいと思います。
☆与えられた導き
- イエス様のために働く同労者の働きを喜ぶ
- 伝道が盛んとなるように祈り続ける。