イエス・キリストを信じる人は罪から解放されています。このことを信じている人は少ないかもしれません。信仰的事実として罪から解放されていることを確認したいと思います。

1.信仰者は「罪から解放されている」

私たち信仰者は「既に」罪から解放されています。

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(ローマの信徒への手紙 6章16~19節)

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマの信徒への手紙 6章22節)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネ福音書 6章34~36節)

  • 以上の聖書箇所は、信仰者は罪から解放された存在であることを教えています。解放されたからといって、自動的にもう罪を犯さない人になったわけではありません。
  • 罪からの解放は約束です。戦って私たちは勝利、解放を得ます。

 

2.実感がない

  • 以上の聖書は、信仰者が罪から解放されていることを示しています。「イエス・キリストを信じる人は、罪から解放された存在である」。これは霊的な真理です。そしてイエス・キリストを信じている「あなた」に、この真理が実現しています。あなたは罪から解放されています。私たちは、霊的真理がわが身に事実となっていると信じます。これは信仰的事実です。あなたは自分が罪から解放されていることを信じるべきであるということです。私たち信仰者は何を信じるかと言えば、罪から解放されていることを信じるのです。
  • 私たちが罪からの解放を実感できるかどうかは関係がありません。イエス・キリストを信じる人は、罪から解放されていると聖書は語っています。これは霊的な真理であり、あなたの身に実現しているのです。あなたが罪から解放されていることは信仰的事実なのです。私たち信仰者は、罪から解放されていると信じ、罪から解放されたものとして、生きていきます。罪から解放されている、これは救いの恵みなのです。

聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ

 

3.「既に」と「未(いま)だ」の間にある私たち

  • 聖書は、信仰者は罪から解放された存在であることを教えています。解放されているからといって、自動的にもう罪を犯さない人になったわけではありません。解放されていることを信じ、罪に打ち勝つ歩みを信仰者はします。それを「聖化」と言います。罪と戦うべきことを聖書は教えています。

ヘブライ人への手紙12章1節
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

ヘブライ人への手紙12章4節
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

ガラテヤの信徒への手紙5章16~17節
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

ガラテヤの信徒への手紙5章24節
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

  • 罪との戦いがあるということは、まだ罪から解放されていないことを意味します。信仰者は「既に」罪から解放されていますが、「未だ」解放されていないという現実に生きています。幸いなことに信仰者は罪に対して勝利できる者とされました。地上にある限り、私たちは罪との戦いがあります。キリストの福音は、罪の赦しだけではなく、罪からの解放を含んでいると私は考えています。

 

4.つながれた象の話し

  • サーカスに子どもの象がいました。足は鎖で結ばれ、鎖のもう一方の端は杭に結びつけられています。こどもの象は最初、自由になりたくて杭が抜けるように引っ張りました。散々努力したのですが失敗に終わりました。その象は自由になることをあきらめました。象は大きくなりました。今や大人の象の力をもってすれば、杭は抜けるのです。でも杭を抜いて自由になろうとはしません。心の中にはあきらめが支配していました。自由にはなれないと思い込んでいました。
  • イエス・キリストを信じる以前の私たちは、罪に支配され、罪の奴隷でした。小さな象に似ています。イエス・キリストを信じた人は、今や大人の象です。罪の支配から解放されることができるのです。これが信仰的事実です。でも子どもの時の経験が頭の中にあり、杭は抜けないと思い込んでしまっているとしたらどうでしょうか。同じように罪から自由になることはできない、そう思っているクリスチャンが多いのではないでしょうか。

 

5.聖書における解放のモデル

  • 昔イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷でした。自分たちの力で、自分たちを奴隷状態から解放することはできませんでした。しかし彼らが奴隷としての苦しみの中から神に救いを求めます。すると神はモーセを選び、モーセを指導者として用い、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放しました。そして自由に生きることのできる土地へ、彼らを導きます。そこに行くまでは荒野の旅をしなければなりません。荒野の旅には困難が伴います。困難に出会ったとき、民は神に信頼するのではなく、不平、不満を言いました。水や食べ物に不足し、民はエジプトにいた時の方がよかったとさえ言います。しかし神さまの憐れみにより、飲み水が与えられ、食べ物(マナ)が与えられます。
  • 約束の地に入る直前、最大の試練が訪れました。その約束の地には強そうな人々がいたのです。約束の地に入れば戦いなり、自分たちは負けてしまうと考えました。そして言うのです。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだ」(民数記14章2節)。すると神は答えて言います。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか」(民数記14章11節)」。不平、不満を言った人は荒れ野で死に、約束に入ることができませんでした。自由を得ることはできませんでした。神を信じて戦おうと訴えたヨシュアとカレブは、約束の地に入りました。
  • 出エジプトの物語は、罪からの解放を私たちに教える出来事です。罪から自由になりたいと本気で神に願い求めるなら、そして神が自由にしてくださると信じるなら、神さまは私たちを罪から解放してくださいます。

 

6.大いなる福音、解放

  • キリストを信じる人は罪から解放される、これは霊的な真理です。そして罪からの解放は、私たちの身において信仰的事実となります。罪からの解放、これは大いなる福音です。