1.福音

信仰によって義とされる、これが福音です。神の前に私たちは罪を犯す者ですが、イエス・キリストを信じる者は、罪赦され、神の前に義とされるとの教えであり、また神の約束です。義とされるゆえに、罪が裁かれることはなくなりました。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
(ローマの信徒への手紙 3章21~26節)

わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。(フィリピの信徒への手紙3章9節)

 

2.この教えの意味すること

(1)裁きからの救い

罪は裁かれることを聖書は一貫して語っています。

  • 創世記冒頭のアダムとエバに対する裁き、
  • ノアの洪水のおける裁き、
  • 出エジプトを経験し、荒野の旅において不信仰の罪を犯した者への裁き
  • 姦淫を犯したダビデへの裁き
  • 北イスラエル王国の滅び、南のユダ王国の滅び

など、罪対する神の裁きが具体的に語られています。さらに主イエスは、再臨され、審きを行われます(最後の審判)。

イエス・キリストを信じる人は、その犯した罪は赦され、最後の審判においても、裁かれることなく、神の国に迎えられると主イエスは約束しておられます。

(2)神との和解

信仰によって義とされることは、言い換えると、神との和解を受けたということです。神との和解を受けた者は、神との交わりに生きることを許されました。そして神との交わりに生きる者とされました。

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリントの信徒への手紙二5章18~21節)

神を信じて生きるとは、神との交わり生きることです。私たちが神との交わりに生きることができるように、イエス・キリストは、ご自分の命を犠牲にしてくださいました。

 

3.「既に」と「未だ」の間に

「既に」と「未だ」の論理は、信仰によって義とされることにも当てはまります。私たちはイエス・キリストを信じ、「既に」、罪は赦されています。イエス・キリストを信じる者は義とされるとの約束が実現したのです。しかし、「未だ」、最後の審判における赦しは与えられていません。私たちは、最後の裁きにおいても赦されるとの希望を持って信仰に生きる者ですが、最後の審判における「赦し」はまだ受け取っていません。次のイエス様のお言葉は警告となります。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイ福音書7章21節)

私たち信仰者は、信仰によって歩みますが、父なる神の御心を行って歩む者です。それは完璧に父なる神の御心に生きることを意味しません。完璧は不可能です。私たちの歩みには失敗はつきものです。罪も犯します。神の御心を行って生きるとの姿勢を持ち続けることが大切です。

 

4.ここが急所

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(ガラテヤ5章13節)。

キリストが与えてくださった自由、それは律法を守らなくてよい、という自由です。この自由、これが信仰の急所です。これがキリスト者の自由です。「神の教えを守らなければいけない」との義務、束縛からの解放・自由をキリストは与えてくださいました。

かって私は、牧師だから、あれをしなければ、これをしなければと自分を追いこみました。ある時気づきました。キリスト者の自由、それは義務感、束縛からの解放、自由であると。そして「あれをしなければ、これをしなければ」との思いを捨て、「しなくていいんだ」と自由を味わいました。

信仰によって義とされるとの教えを徹底すると、律法は守らなくてよいという結論になります。何と自由なことでしょうか。この自由に生きることは、信仰によって義とされるという教えの真実さをいよいよ証しすることになります。

この信仰の急所を身につけないと、信仰者は、いつも「あれをしなければ」「これをしなければ」との思いにつきまとわれ、さらに「しなければと思っていたのにできなかった」「私の信仰は弱い」とか「私は罪深い」とか、このような思いがいつも心の中にあるのです。

神の戒めをなぜ守らなければならない、守るべきだとなぜ考えるのでしょうか。守らないとどうなるのでしょうか。守らないとクリスチャンじゃなくなるのでしょうか。律法(神の戒め)の実践ではなく、主イエスを信じて私たちは(洗礼を受け)義とされ、キリスト者になったのではありませんか。

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この自由を十分味わったなら、次のことを考えてみてください。では神さまは、なぜ戒めを与えられたのか、です。そして戒めを与えられた神さまの御心を理解することが大事です。もし神さまのみ心が分かれば、「神さまの教えを守るべきである、守らなければならない」という言葉は私たちの口から出てこなくなります。そして喜んで神さまの教えに従うようになります。

ガラテヤの信徒への手紙5章13節
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

私たちは律法を守らなくてよいという自由を与えられています。この自由は、同時に愛をもって人に仕える自由です。この自由をキリスト者の自由と言います。ここにも複眼的な思考が現れています。

  • 神の教えは守らなくてよい。
    救われるためには、信仰が必要であり、神の教えを守ることは必要ありません。「守らなければ」と考えるなら、何のために守るのか、考えてください。守らなくてよい自由をたっぷり味わいましょう。
  • 神の教えは守べきである。
    救われた私たちは神さまの心を大切にし、喜んで神さまの教えを守ります。ここには「守らなければならない」という義務感、束縛はありません。むしろ進んで守るのです。