1.神の約束に生きる人たち

聖書に登場する人物は、神の約束に生きています。神の約束の実現に向けて生きています。そして約束であるがゆえに、時に人間は、神の約束を疑うことさえあります。聖書は、信仰とは神の約束に生きることと教えています。約束には命令が伴うことがしばしばあります。

(a)アブラハム

アブラハムは、ある時、神の呼びかけを聞きました。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12:1~12)。

「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」。これは神の約束です。アブラハムはこの神の約束を受け取りました。そして「わたしが示す地に行きなさい」との神の命令に従い、神が示される地を目指して旅立ちました。彼の信仰の旅が始まったのです。彼には子供がいません。しかもアブラハム夫婦は年をとっています。子供が与えられなければ、子孫が増えることはありません。創世記ではここから、子供の誕生をめぐって信仰のドラマが始まります。

(b)モーセの場合

モーセもまた、神の呼びかけを聞きました。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:7~10)。

神さまは、奴隷の苦しみにあるイスラエルの民を救いだし、乳と蜜の流れる肥沃な土地へ連れて行くと約束しました。神はモーセに命じます「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。モーセもこの神の約束を信じ、神の命令に従いました。彼の人生は、この神の約束に導かれた人生でした。

(c)ヤロブアム王(ソロモンの死後イスラエルの王となった王)

ソロモン王の死後、イスラエル王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。神は、ソロモンの家来のヤロブアムに北王国の王にすると約束します。以下の引用に、神の約束と命令を読み取ることができます。

「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする(列王記上上11:37~38)。

2.新約聖書における神の約束

(a)イエスの与えた約束

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。

主イエスは弟子たちに「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。そして出て行ってすべての民をイエス様の弟子にするようにお命じになりました。この約束と命令は、私たちにも与えられていると信じます。

(b)命の約束

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

神さまは主イエスを信じる者に永遠の命を与えると約束されました。私たちはこの約束を信じ、希望を持ってこの世を旅します。

(c)罪の赦しと聖霊の約束

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒言行録2:38~39)。

神さまは、洗礼を受ける人の罪を赦し、さらに賜物として聖霊を与えると約束してくださいます。私たちはこの約束を信じ、罪が赦されていると信じて平安をいただきます。また賜物として聖霊を受けているので、聖霊の導きを求めて信仰の歩みをします。ヨハネ福音書では、聖霊は、私たちのうちにおられると、約束されています。約束は、それを信じる者に、約束の実現を目指すように促します。

(d)試練に関する約束

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

多くのクリスチャンが頼みとしている神さまの約束です。聖書を読んでいると沢山の神さまの約束に出会います。

3.教理と約束

私たちは教理を学びます。教理は信仰の筋道を明らかにするものです。そして教理は教えでありますが、同時に神の約束であると言うことができます。いくつか例を示します。

(a)神は全能の神

「私たちが信じる神は全能の神である」と教理は教えます。これは言い換えると、神が「わたしはあなたに対して、わたしは全能の神であり続ける」と約束してくださっていると考えることができます。

(b)信仰によって義とされる

教理は次のように教えます。

「神は永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された。またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた」(ウェストミンスタ信仰告白から)。

その根拠となる聖書は次の箇所です。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:24)。

イエス・キリストを信じる者は義とされる、これは教理として教えられます。これも言い換えると、主イエスを信じる者をわたしは義とする、との神の約束とみることができます。人は教理を信じることによって救われるのではなく、神によって救われます。神の約束が私たちが救われる根拠となります。私たちは救いの約束を信じ、救いを確信し、信仰の歩みをいたします。救いの確信の根拠は、神の約束にあります。

(c)洗礼の恵み

ハイデルベルク信仰問答では、洗礼の恵みについてこう語ります。

「キリストがこの外的な洗いを制定されたとき、約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ、そして、それは日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです」。

ここでは、洗礼により私たちが罪から清められることはキリストの約束されたことであると教えられています。

4.信仰を約束に生きることと考えないと

信仰は約束に生きることと考えないと私たちは偏った信仰に陥るのではないか、との危惧を抱きます。つまり教理はよく知っていても、それが身についていないという偏りです。知的な信仰になってしまいます。教理は知っているが、それが自分の身に現実化していないという弊害が生じる可能性があります。たとえば洗礼が何かを知っていても、つまり洗礼は私たちを罪の汚れから清めることを知ってはいても、清められることを経験しないのです。「私は罪深い」という告白を続けるのです。礼拝に出席すると、司式をする人が「私たちは罪の深い者です。しかしあなたの赦しを感謝をします」と祈りはしますが、「清められたこと」を感謝する祈り、清めてくださるキリストをたたえる祈りを、わたしはあまり聞いたことがありません。

多くの信仰者が、聖霊に導かれることがどういうことかわからず、聖霊が自分の内に住んでおられることを知らず、聖霊に導かれて生きる恵みを知らないでいるのも、洗礼を受ける者は賜物として聖霊を受けることを約束として知らないからだと考えています。イエス・キリストの弟子たちは、聖霊を受けるために、聖霊を受けるとの約束を信じ、その実現を祈って待っていました。私たちは教理を信じるのではなく、約束を実現される神さまを信じるのです。神の約束を知ることは、信仰生活を豊かにします。