以下は、金沢元町教会でデボーションの学びをしていたときの私の証しです。

キリストに結ばれた歩み

私は小さいときから死を恐れて生きてきました。メメントモリ、というラテン語の言葉があります。「汝、死を憶えよ」という意味です。これは自分の命に限りのあることを自覚し、いかに生きるかを考えるように勧める言葉です。死を恐れた私は死をできるだけ考えないように生きてきました。信仰を得てからは、メメントモリがいつも頭の中に響いています。
そんな私が若い日に願った思いがあります。「そのためなら死んでもいいと思えることのために生きていきたい」。そうすれば死に勝利できると考えたのです。それはまだ神さまを知らないときの思いでしたが、神さまは私を信仰へ導き、さらに牧師となるように導かれました。今、この願いはかなえられたと思っています。神さまの憐れみを思わずにはおれません。
サラリーマン生活に区切りをつけ、牧師となり、毎週説教をするようになりました。そんな私に何か一つ足りないという思いがいつもありました。私は洗礼を受けて一年後に神学校に通い牧師になりましたので、信仰生活の期間が短いのです。私が欲しかったもの、それは、神がおられるという確かさです。この確信を与えられるように熱心に祈りました。それは牧師になってから10年以上経ってからのことでした。それまでは説教の準備で精一杯でした。

その当時、教会員で病気になる人が多く、教会員のために祈るのですが、神さまが必ずいやしてくださるとの確信はなく、どう祈っていいか分かりませんでした。自分の祈りで病気が治ったり治らなかったりするわけではありません。「いやしてください」という祈りでいいのか、疑問に思いました。
とにかく、神がおられることの確信が欲しかったのです。幸い、あることがきっかけで、神さまはおられるとの確信を得ることができました。そして同時に、聖書が神の言葉であるとの確信を得ました。確信をもって説教ができるようになりました。さらに物事を考えるとき、聖書を土台に考えるようになりました。

そんなある時、友人の牧師から超教派の集会に誘われ、出かけました。そこで私は、デボーションと呼ばれる聖書の読み方を学びました。聖書の読み方は色々あると思いますが、聖書を読み、思いめぐらし、自分の生活に対する導きを聖書から得ようとする読み方です。私の人生を顧みると、このようなちょっとしたこと、この場合は友人からの誘いですが、この<ちょっとしたこと>の中に、神さまの導きがあることを思います。そのようなちょっとしたことの繰り返しの中で、私の人生は神さまに導かれたことを思います。神さまの導きは人を通して現れることがあります。
牧師として教会における務めをいかに果たすのか、個人として家庭生活をいかに営むのか、私たちは色々な課題を抱えていますが、自分の経験や知恵によってではなく、聖書を通して、神さまの導きを与えられて生きていく、そんな信仰の歩みが始まりました。

私にとっての一つの信仰告白は以下のものです。

  • 神さまはわたしのことをよくご存知である。
  • 神さまはわたしのことを愛しておられる。
  • 神さまは私を最善に導くお方である。

私は自分の身に何が起きても、それが私にとっての最善であるとの<信仰>に生きる覚悟でいます。そして私は、自分の人生において神様のみ心が実現することを願うようになりました。神さまの目から見ての私の歩みの最善を願うようになりました。つまり私が願う私の人生の最善ではなく、神さまが備えてくださる、私の人生の最善を願うようになりました。神の御心が天で行われるように、地にも行われるように、と主の祈りにあります。具体的には、私の人生において神様のみ心が行われるように願い、そのような歩みを目指しました。牧師として教会がこうなったらという思いがあります。聖書や神学書からあるべき教会の姿を思い描き、教会がそうなったらという願いがあります。しばしばそこに人間的な思いが混ざってきて、教会の現実に対して不満を抱いたり、神さまを恨んだりすることもあります。そんな時、いつも神様のみ心はどこにあるのか、原点に戻らされます。

聖書を読むとき、神さまはいかなる方なのか、神さまは私たちに何を願っているのかを考え、さらに自分の課題は何か、直面している問題は何か、自分は今どんな気持ちでいるのか、そんな私に神が何を語りかけておられるのかを聞き取るようにして、そこで聞き取ったことを神さまの導きと受けとめ、それに従うようにしてきました。私の身において、神様のみ心が行われると信じるわけです。

旧約聖書を読むと、神さまは人に具体的な導きを与えています。アブラハムやモーセ、ヨシュア、ダビデに対して、具体的に声をかけて導きを与えています。そのように明確なはっきりとした神の声を聞くわけではありませんが、聖霊の働きにより、聖書から神さまの導きが与えられると信じ、与えられた導きに従ってきました。このデボーションが私の信仰生活の中心をなしていると思います。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119:105)は、その通りだと実感しています。また「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」も、その通りだと感じています。日ごとに聖書を読み、神さまの導きをいただく、幸いなことだと思います。

このデボーションを通して、私は神さまにつながり、イエス・キリストにつながっています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ福音書15章5節)。

私にとってデボーションは主イエスにつながる一つの形です。

今、私は老いの中にあります。やがて教会の働きから退き、一人の信仰者として色々なものを失いながら生きていくことになります。失うことには寂しさや孤独がつきまといます。その時々において、神さまが必要な導きを与えてくださると信じています。またこの喪失を信仰者としていかに受け入れていくのか、課題です。それもまた私にとって最善、と信仰によって受けとめていくつもりです。神さまは、ふさわしい聖書の言葉を与えてくださると信じています。聖書の言葉はどんな時も、「わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」です。