聖書を読む生活をする上で大切なことは二つあります。ひとつは礼拝で説教を聞くこと、第二は自分で聖書を読むこと。この二つは車の両輪のようなもので信仰生活の前進に必要だと考えます。これについてブログに書いたものを紹介します。
目次
礼拝で福音を聞く
自分で読む
自分で読む(つづき)
神の導きを求める
神の導きを求める(つづき)
礼拝で福音に聞く
聖書をどのように読むのかは、人それぞれだと思います。聖書をあまり読まないクリスチャンもいます。信仰がないのに聖書を読む人もいます。これから書くことはクリスチャンで聖書を読み、神さまに祝福された歩みをしたい方に向けての提案です。
まず第一に日曜日に神さまを礼拝することを大切にします。そして祈りをもって説教を聞きます。説教では福音が語られるからです。聖書には色々なことが書かれていますが、聖書が伝える第一のことはキリストの福音です。この福音を知るために、私たちは説教に耳を傾けることが大切です。
神さまは福音を伝える者を選び、召し出します。主イエスの弟子たちも、使徒パウロも福音を伝えるために選び出された人たちです。現代では、牧師と呼ばれる人たちが神さまから福音を伝えるように選ばれ召し出され、礼拝において福音を伝えます。福音は聖書の勉強をすれば伝えることができるというものではありません。もちろん勉強は大事です。自分が聖書から聞き取った福音、学んだ福音を実際に生きることによって、説教者は福音を力強く伝えることができます。ですから、説教者のために祈ることはとても大切となります。説教者のために祈りつつ、礼拝に出席し、説教を聞きます。
何のために福音を聞くのかと言えば、福音によって生きるため、福音によって自分が生かされるためです。このことを忘れないことが大切です。説教は鑑賞するものではなく、今日の説教はよかったとか、わかりにくくて残念だったとか、評価して終わるものではありません。説教者を通して神さまが語っておられると信じて、福音を聞き取ること、聞き取ったことを自分の生活に生かすように努力することが大切です。福音を聞き取ることができないこともあるかもしれません。説教者のために祈り、次の説教に期待します。
礼拝説教を通して、福音とは何かを教えられること、福音を信じることが大切となります。聖書には信仰者に対する教えが色々書かれています。つまりどのように行動すべきか、教えが書かれています。ここで二つの従い方が生まれます。
- 自由に進んで教えに従う
- 教えに従わなければならないと考えて従う
前者は教えに従うことが喜びとなります。後者は教えに従うことが義務となります。すると信仰生活が苦しくきゅうくつになります。
福音を聞くと私たちは喜んで従うことができるようになります。ですから説教者のために祈り、祈りをもって説教を聞き、福音を聞き取ることが大切です。
自分で読む
聖書を読む生活。人がどのように聖書を読むのか、それはその人の自由です。それが前提です。その上で、神さまに導かれ、祝福される歩みをしたいと願うなら、それなりの読み方があると思います。
聖書を自分で読むとき、聖書はむずかしいという印象を持つことがあります。むずかしい面は確かにあります。牧師を何十年しても本当の意味がなんなのか、わかりにくい箇所もあります。そういう箇所に限って注解書という聖書解釈の手がかりとなる本でも説明のないことがよくあります。そこで説教者は苦労します。聖書解釈の専門家でも解釈に困る箇所があります。それらは信仰によって解釈する箇所ということができます。
むずかしいからと言って読むのをやめたり、聖書日課とされる箇所をサッと読んでおしまいにするのはもったいないというか残念な気がします。「読者百篇意自ずから通ず」という言葉もあります。分かるところを読み、分からないところは飛ばしてもいいと思います。段々分かるようになると信じて聖書を読む習慣を身につけたいです。
何のために読むのか。ある人は聖書をよく知りたいと願い、教会での聖書の学びに積極的に参加し、自分でも解説書を読み、理解を深めることに喜びを覚える人もいると思います。聖書に関する知識が豊かになることは素晴らしいことだと思います。
私は牧師をしてきましたが、聖書をマスターしたとは思っていません。旧約聖書のゼカリヤ書とか、ハガイ書とか、ヨハネ黙示録とか、内容をきちんと理解していない箇所がいくつもあります。聖書のどの箇所でも解説できることは素晴らしいとは思います。
信仰者の義務として日々聖書を読むという方もおられると思います。
私自身は生きるために聖書を読みます。逆に言えば、聖書を読まなければ自分はどう生きていいのか分かりません。大げさと思われるかもしれません。でもそうではありません。私は若いとき、死の恐れと空しさに囚われていました。生きていくためには仕事をし、それなりの生活をしてきましたが、心は満たされません。真の平安もありません。そんな考えても分からないことは考えず、生き甲斐を見つけたらいいのではないか、と言う人もいるかもしれません。でも私は自分の心に正直に生きることしかできませんし、自分の心をごまかすことはできません。信仰を持つ前の状態には決して戻りたくないのです。
私は生きるために聖書を読みます。目的は二つあります。
- 物事をどのように考えたらいいのか。聖書的な物事の考え方を身につける
- 神に導かれる生活をする。
自分で読む(つづき)
(1)生きるために読む
人は何かを選択しながら日々を生きています。平凡な日であれば、習慣で生きていけます。何か事が起きればどうするか、人は選択をします。何をどのように考え、何を大切にして決断をするのか、そこにはその人の生き方、考え方が表れてきます。人が抱く考え方、生き方を人生観、価値観、世界観などと呼ぶことがあります。人は何らかの形で、自分の考え方、価値観、人生観を持っていて生きています。選挙で投票するときは、その人の考えがはっきりと選択となって現れてきます。
私は、自分の考えの土台を聖書におきます。聖書にもとづいて物事を考え、判断するようにしています。聖書をもとにしますが、その一番の土台は福音です。自分が罪を犯すものですが、神さまは私が神の子として生きていくことを期待してくださっていると信じます。
また愛すること、つまり神と人を愛することを一番大事にしたいと考えています。私にとって神さまを信頼するとは、神の言葉である聖書に信頼することでもあります。このように生きるために、聖書に親しみ、信仰者としての姿勢を築く努力をしています。これが生きるために聖書を読むということです。
聖書的なものの見方、聖書的な生き方を身につけることになります。
(2)導きを求めて読む
牧師としてしたらよいことは沢山ありますが、全部はできません。どうしたらいいものかと悩んでいました。そこで神さまがしなさいということだけをすればよいのではないかと考え、それは何かを求めました。それを神の導きとして求めました。
神さまは私のことをご存じです。神さまは私を最善に導こうとしてくださると信じます。それで今自分が置かれている立場、状況の中で神さまは何をせよとおっしゃっておられるのかを考えます。祈りつつ聖書を読み思いめぐらし、考え、想像します。そして導きと思えることを実行してきました。
そのために聖書を読むとき、その日読む箇所から、神さまは私に何をするように求めているのかを読み取るようにしました。明確な導きを読み取れるとは限りません。むしろ、こうすることが御心なのかも知れない、というある意味、あやふやなものかもしれませんが、それを導きと受けとめてそれを行うことを心がけてきました。このようなこと20数年続けてきて、神さまに導かれてきたなとの感謝な思いがあります。
こうしていつも神さまの御心を求めるとき、心は本当に平安に満たされます。
神の導きを求める
私自身の神さまの導きを求める読み方についてもう少し具体的に紹介します。聖書はそれぞれの聖書日課に従って読めばよいと思います。
1.前提となる信仰
- 神さまは、私を愛している。
- 神さまは、私のことをよくご存じである。
- 神さまは、私に最善の人生を用意しておられる
イエス・キリストを信じる人を神さまは愛してくださいます。どんなクリスチャンもこの前提に立つことができます。
2.聖書を読むポイント
二つのことを知ることを心がけています。
- 神はいかなる方かを知る。
- 神がキリスト者に求める生き方を知る。
聖書箇所によっては、この二つに対する答えがあるとは限りません。無理矢理に答えを求めようとする必要はありません。聖霊の導きを祈り求めて読みます。「聖霊なる神さま、導いてください。教えてください」と祈ればよいと思います。
3.神はいかなる方か
私たちは神さまを信じます。神さまがいかなる方かを知ることは大切です。聖書の告げる信仰は神さまとの交わりなので神さまのことを知ることは大切です。
聖書には、色んな場面があり、それぞれの場面において、神さまの行動、神さまの語る言葉は違います。それによって神さまがどんな方かを具体的に知ることができます。父なる神さま、子なる神である主イエス、聖霊なる神についていかなる方かを聖書から知ります。
4.神が私たちに求める生き方
神さまが私たちに求める生き方には種類があります。
- 命令。~しなさい、~してはいけない。
私たちが聖書を読むとき、盲点があります。気がつきにくいのです。それは次のものです。
- 神の「約束」。
神さまは何を私たちに約束しているのか。信仰者は神さまの約束を信じて生きます。
- 信仰者の「模範」的な生き方を登場する人物から学ぶ。
- 「罪」を知る。何が罪なのか、聖書から知ります。自分に当てはまるなら悔い改めます。
この三つ(約束、模範、罪)は漠然と聖書を読む限り、なかなか読み取ることができないと思います。どの聖書箇所にもこれらのことがすべて書かれているとは限りません。読み取ることができるのを読み取ります。
できたらノートにメモをするとよいと思います。後からノートを読み返すと自分が聖書をどのように読んでいるのかが分かります。よい思い出になります。証しのノートにもなります。
神の導きを求める(つづき)
1.聖書に聞く
聖書を読む時のポイントとして二つのことを紹介しました。
- 神はいかなる方かを知る。
- 神がキリスト者に求める生き方を知る。
これをAと呼びます。
2.自分を思いめぐらす
次に自分について思いめぐらします。
- 自分はどんな状況にあるのか。
- 自分はどんな気持ちなのか。
- 自分はどんな問題、悩みを持っているのか。
- 自分は神の導きを必要としていることがあるのか。
これらをBと呼びます。
3.結び合わせ、マッチング
そこでAとBが結びつかないか思いめぐらします。マッチングさせます。マッチングできた場合、何が起きるのでしょうか。神さまの導きが与えられます。そしたら、その導きに従います。
私にとって忘れられない人生を左右した神さまの導きがあります。
私の状況:K教会から招聘を受けました。その時私が仕える教会では、会堂建築を終わったばかりです。通常なら、この時点で牧師として別の教会に移るという選択はありません。でも私は祈って決めることにしました。
何日かして読んだ聖書の箇所:使徒言行録16章
そこにはパウロが幻を見たことが書かれています。マケドニア人が立って「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」とパウロに願ったというのです。パウロはこれを神の導きと受けとめ、自分の予定を変更してマケドニアに行きました。そこでキリストを宣べ伝えたのです。
読んだ聖書と自分の状況が結びつきました。マッチングできました。私はK教会に行くことを神さまの導きと受けとめました。
このような人生を左右するような導きは滅多に起きないと思います。でも時に起きます。私たちは平凡な生活をしています。神さまの導きも目を見張るようなものとは限りません。
- 「こうしたいな」と思っていることを後押ししてくれることがある。
- 「こうしたくない」と思っていることをしなさいと言われることがある。
- 迷っていることに対して答えを与えられることがある。
- ふっとこれをしたらよいのでは、との思いが与えられる。
4.信仰によって生きる
自分が神の導きと受けとめたことは本当に神の導きなのでしょうか。自分の思い込みではないかとの疑問がわいてくるかもしれません。神さまの直接的な声を聞くなら別ですが、与えられた導きが神の導きだと断言はできません。むしろ神さまの導きと信じます。私たちは信仰によって生きるからです。
聖霊の導きを祈って、マッチングするなら、おかしな導きは与えられないと信じます。このような聖書の読み方を続けていく中で、だんだんと熟練していきます。