1.目的
聖書を読み、神様の導きを受ける生活を送るにはどうしたらよいか、提案をします。さらに私自身が聖書を読んでどのようにして神さまの導きを受け取ったのかの例を示します。また私だけでなく、この読み方(デボーション)を学んだ信仰の友の例も示します。
このサイトを訪れた方が、聖書を通して神さまの導きをいただく信仰の歩みをされ、神さまに賛美と感謝をささげられる歩みをしていただくことが願いです。
2.神さまの導きについて
神さまの導きには、大きく分けて二種類あります。私たちが神に求めて与えられる導きと、私たちが求めていないのに、神の側から与えられる導きです。
- 第一の導きは、私たちが直面している状況に対する神さまの導きです。私たちは何かに迷い悩む時、神さまの導きを求めます。あるいは、自分ではこうしたらいいと考えてみても、それがみ心にかなうかどうか気になり、神のみ心を確かめたいと考えます。私たちの側から神さまの導きを求めます。
- 第二の導きは、私たちの思いを超える導きです。ある時アブラハムは神の呼びかけを聞き、それに応じます。そこから彼の新しい人生が始まります。モーセも、突然神の呼びかけを聞き、イスラエルの民をエジプトから導き出す働きに従事します。人間の思いを越えて、神さまの側から導きを与えられるのです。これを神の召しと呼ぶこともあります。信仰者の人生を変えるような召しもありますが、日々の生活の中で、日々の生活における事柄について、神の側からの導きもあります。
- 神さまの導きは、私たちが同じ状況におかれても、同じとは限りません。たとえば、出エジプト記によれば、モーセに率いられたイスラエルの民は奴隷の地エジプトの国から解放され、自由に生きることのできる土地を目指して旅をします。旅の途中で水不足に直面します。すると民は不平、文句を言います。するとモーセは神に祈り、神は導きを与えます。「杖で岩をたたきなさい」(出エジプト記17章)。水不足の困難は再度訪れます。その時もモーセは祈ります。すると神は「岩に向かって水を出すように命じなさい」(民数記20章)と告げます。水不足という状況は同じでも、神の導きは違うのです。
- 神さまは自由なお方なので、神さまの導きはこのようにして与えられると人間が断定することはできません。しかし神さまは聖書を与え、聖書を通して導きを与えてくださると信じて、このサイトを開設しました。
- 信仰者が「振り返ってみれば、神さまは私の人生を導いてくださった、と実感します」と語るのを何回か聞いたことがあります。でも、「私は神の導きをいつも求めて生きてきました」と信仰者が語るのを聞いたことはあまりありません。私たちは積極的に神さまの導きを求めていいのではないでしょうか。多くの人は神さまの導きをどう求めたらいいのか、わからないのかもしれません。かつての私もわかりませんでした。あるいは平凡な私たちには与えられないと思っているのかもしれません。
3.さらなる願い
神さまの導きに生きる教会員が増えれば、教会には喜び、感謝、賛美が溢れてきます。教会の中で、この喜び・感謝が分かち合われ、賛美が溢れてくることを願っています。そして生きて働かれる神さまに対する証しの言葉が教会に満ちてくるなら、必ずや伝道が盛んになります。神さまが求道者を送ってくださいます。教会が生まれ変わります。こうして神さまが栄光を現される、それが私のさらなる願いです。