第一コリント 6章1~11節

2020年10月13日

(内容)

  • 教会の中で、ある兄弟と別の兄弟との間で争いが起きた。ある兄弟はその解決をこの世の裁判所に求めた。パウロは教会の中で解決できなかったのかと問題にする。

(黙想)

  • コリント教会のある兄弟が他の兄弟との間の問題の解決をこの世の裁判所に求めたことをパウロは問題にする。なぜなら聖なる者たちが世を裁くからと言う。世は罪に支配されている。何が真に正しいか否か、それは教会、聖なる者たちが知っている。本来、教会の中で起きた問題は教会の中で解決すべきである。それを世の裁判所に解決を求めたことは、教会としてある意味で無能力、恥をさらすことになる。5節でパウロは「あなたがたを恥じ入らせるために、私は言っています」語る。
  • まず教会の中で解決できないこと自体が問題である。それは「あなたがたの負け」であるとパウロは告げる。特にコリント教会では、信徒たちは高ぶっていたので、この高ぶりは見せかけのものでしかないことがわかったのではないか、とパウロは告げているかのようである。本当に自分たちの信仰を誇ることができるなら、教会の中に起きた問題を教会の中で解決できたはずである。
  • またパウロは裁判を起こした人に向けても語る。「なぜ不義を甘んじて受けないのですか、なぜ奪われるままでいないのです」。しかし奪おうとする相手の要求に従い、奪われるままでいることに耐えられないから彼は裁判を起こした。不義を甘んじて受け入れるというのは、文字通りそうせよというのではなく、裁判所に訴え出たことの間違いを告げる言葉と考えられる。もし不義を甘んじて受け入れるなら、問題は起きない。不義を見逃してよいということにはならない。むしろ裁判所ではなく、教会に仲裁を求めるべきだったというのがパウロの主張と思われる。実際には、教会の人たちは結局見て見ぬ振りをした。これも不義といえる。だから奪われようとする人はこの世の裁判所に訴えた。
  • 「なぜ、不義を甘んじて受けないのです」というパウロの言葉には、文字通り、不義を甘んじて受けなさいとの意味もあると思う。不義に対する信仰者の態度は、不義に抗議することだけではない。不義を行う者に対する対処の仕方は色々あると思う。執り成しの祈りをすることも信仰者の一つの選択である。主イエスは、十字架の上で、自分を十字架につけてものたとの罪の赦しを祈っている。
  • 結論としてパウロは、「正しくない者は神の国を受け継げないことを知らないのですか」と語る。そして「思い違いをしてはいけない」という。そして悪徳表を書き、このような者たちは神の国を継ぐことはできないという。
  • この「思い違い」は何を意味しているのか。神の国を継げない人は悪徳表に掲げたような罪を犯す人だけ、という理解は思い違いであり、不義を行う者も神の国を継げないのだとパウロは語っているのか。
  • それともコリント教会の人たちは自分たちは神の国を継ぐことができると思っている。それは思い違いだとパウロは語っているのか。文章の流れとしてちょっとわかりにくい。
  • 最後にパウロは大切なコメントを書く。たとい悪徳表に書かれている罪を犯す人も洗礼を受ければ、聖なる者とされ、義とされると書く。パウロは義とされると書き、罪が赦されるとは書かない。なぜなのかと思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御父・御子>キリストの名により洗礼を受ける者を神は聖なる者とし義とする。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>教会の中に起きた争いの解決のために世の裁判所に訴えるのは間違いである。神の言葉が教会には与えられており、神の言葉に基づき、問題の解決を行うことが教会にはできるし、しなければならない。
  • <教え>信仰者は損得勘定、あるいは自分の面目によって行動するとは限らない。時には「不義を甘んじて受ける」こともあっていい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロはコリント教会に起きている問題に対して、信仰者を生み出した父として忠告を与えています。当時は、私たちとちがって信者たちは自分の聖書を持っているわけではなく、信仰者としていかに生きるべきかを学ぶ書物はなかったと思います。パウロは教会に問題が起きたとき、手紙を書き、教会を指導しています。パウロの手紙は良い手引きになったと思います。今、聖書という形でパウロの教えが私たちに伝えられていることは、感謝なことだと受けとめます。
  • 私が牧師として働いているとき、裁判所に訴えるような問題が起きたことはなく、幸いでした。そのような問題はないとしても、考えるべき課題は色々ありましたし、聖書に立って取り組む努力を私は長老たちと共にしてきました。そのような努力ができたことは感謝です。
  • 今日の聖書で一番印象に残ったことは、「不義を甘んじて受ける」ということです。自分の正しさを貫くことは大切ですが、時に相手を赦しまた寛容になることも教えられています。また執り成しの祈りをすることも教えられています。キリスト者は損得勘定で生きていないことを思います。
  • 今は、特別な問題もなく日々を過ごすことができていて感謝です。今日は感謝をもってディボーションを終わりとします。
☆与えられた導き
  • 特になし