マタイ福音書 5章17~20節

2020年7月3日

(内容)

  • イエスは律法を廃止するためではなく、完成するために来られたと語り、最も小さな戒めでさえ、それを守るなら、守るように教えるなら天国で大いなる者、またファリサイ派の義にまさる義を求めるべきことを教えられた。

(黙想)

  • イエスは律法を廃棄するためではなく完成するために来た。ファリサイ派や律法学者の目から見えればイエスは律法を破っているように見える。しかしイエスは律法を真に実践する人であった。律法の完成のためにイエスは来たという時、イエスを信じる者たちが律法を完成することをも語っている。イエスを信じる者たちの義は、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければならないと語っているのだから。
  • 考えてみると、教会では罪の赦しは語られるが、ファリサイ派にまさる義を得ることはあまり語られていないように見える。赦されているからそれでいいとの思いが牧師や信徒たちの思いの中にあるように見える。つまり律法を実現することが勧められていない。逆に実践しようと思っていても実践できない罪は赦されているから、それでよしとする風潮があるように思える。同時に安易に律法の実践を説くと律法主義に陥ってしまう。
  • イエスの死と復活の出来事が示す福音は、私たちを罪から解放し、私たちは律法を満たすことができるようになると語る福音である。残念なことに罪の赦しは語られていても、それ以上のことはあまり語られていない。福音の理解が狭いという問題がある。
  • 私自身が、山上の説教で教えられる戒めを守って生きるべきことを教えられる。山上の説教に対する自分の態度が曖昧であったことを思う。悔い改める必要がある。
  • 律法は一点一画も消え去ることはない。律法は永遠に律法として私たちの前に守るべきものとして提示されている。
  • この段落では、律法に対する態度が問題とされている。
  • 律法の最も小さな掟を一つでも破り、そうするように教える者は天の国で最も小さなものと呼ばれ、律法の最も小さな掟を守り、守るように教える者は天国で最も大いなるものと呼ばれるという。律法の戒めに小さい掟と大きい掟があるのかはわからない。最も小さい掟をないがしろにしてはいけないことが教えられる。
  • 最後に律法学者やファリサイ派の義にまさる義を持っていなければ、天の国に入ることができないとある。この段落は律法に対する態度が問題にされているのであって、天の国に入る救いの条件が問題にされているのではない。パウロは信仰による救いを語り、イエスは律法の実践による救いを教えているとの誤解が生まれ兼ねない箇所ではある。聖書を読むときは文脈を忘れてはならない。21節以下では、ファリサイ派の義にまさるということがどういうことかが教えられている。
  • イエスはあくまでも、律法を守ることを教えている。しかも表面的に守るのではなく、神の御心に添う形で守ることを教えている。イエスを真に信じる者は、律法を守る。信仰によって救われた者は律法を守る者とされるし、律法を守る者となることをイエスは教えているのである。そのためにイエスは死に復活された。
  • この箇所は、私たちの信仰のあり方に一石を投じる箇所である。私たちは真剣に神の戒めを守ろうとしているのか否か。実はこの箇所は二週間前に読んだ。その時は迷路に入ってしまった。イエスは天の国に入る条件を語っていると思ってしまったので。そこでロイドジョンズ牧師が、山上の説教について説教していることを思い出し、彼の著作を手に入れて読み始めた。山上の説教とはいかなるものなのかを理解することの大切さが最初に書かれていた。僕にはその理解が無かったので迷路に入ってしまった。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは律法を完成するために来られた。
  • ファリサイ派や律法学者たちの目にイエスは律法を破っているように見えたが、それは表面的な見方による。イエスは律法を全うするために来られた。イエス自身神の前に律法を全うし、私たちの身代わりの死を遂げ救い主となられた。
  • 同時にイエスは、イエスを信じる者たちが律法を全うするためにおいでになり、十字架の死を遂げ、復活された。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)イエスを信じるクリスチャンは律法を守るべきこと。しかも深い意味において。つまり神の御心に添う形で守ること。
  • そのためにイエスは死に、私たちを生かしてくださる。イエス・キリストによる救いの恵みは、私たちを律法を十全に守る者とする。このことはしっかり受けとめなければならない。

神の導き

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私はこの箇所を二週間前に読み、迷路に落ち込んでいました。私は山上の説教がいかなるものなのかを理解していなかったのでした。それでロイドジョンズ牧師の『山上の説教』を手に入れて読み始めました。最初に、山上の説教がいかなるものなのかの解説がなされていました。そこに書かれていることに深い共感を覚えました。
  • そして、私自身の山上の説教に対する態度の曖昧さを教えられました。そのことを悔い改め、山上の説教を真剣に守る努力をします。
  • 『山上の説教』の最初の部分に山上の説教がいかなるものなのかが説き明かされていましたので、それを自分のものとするために、今一度読み直し、まとめたいと思いました。
☆与えられた導き
  • 『山上の説教』を読み直しまとめる。
  • 『山上の説教』の教えを守る努力をする。