第一テサロニケ 1章8~10節

2020年7月1日

(内容)

  • テサロニケの人たちは福音を聞き、偶像礼拝から離れ、神に立ち帰り、生ける神に仕えるようになった。また主の来臨を待ち望むようになった。このテサロニケの人たちの信仰は至る所に伝えられている。

(黙想)

  • 福音を聞いたテサロニケの人たちが偶像から離れ、神に立ち帰り、生ける神に仕えるようになった。福音を信じれば当然のことかも知れないが、驚くべき変化だと思う。それほどの変化が生じるとは。
  • 現代人の場合、偶像はあるが、多くの場合それは目には見えない。富、地位、権力、自己実現などなど。それゆえ、偶像から離れることが簡単ではない。自分を偶像にしている場合は、特に簡単ではない。パウロが生きていたとき、当時の人々には、目に見える偶像があったと思う。テサロニケ教会の人たちは偶像の神殿に行くのをやめ教会へ行った。
  • 現代人は時に神社や寺に行く。奈良に来る観光客は神社や寺で祈る。願いごとをして神仏に祈る。そこには信仰があるかも知れないが、聖書が語る信仰とは全く違う。
  • キリスト者は信仰に入り生活が、聖書を読まない生活から聖書を読む生活に変化する。礼拝に行かない生活から礼拝にいく生活となる。日曜の過ごし方が変化する。祈らない生活から祈る生活へと変わる。この転換が生き方の変化、生き様の変化としてはっきりと見えるようになると、その信仰が伝えられていくことになり、伝道となるのではないか。
  • 偶像礼拝とは、神を自分に仕えさせることである。しかしキリスト信仰は、自分が神に仕える信仰である。自分の信仰が神に仕える信仰であることはどのようにして分かるのか。神に仕える信仰になっているのか。
  • テサロニケの人たちは、御子が天から来られるのを待ち望むようになった。キリストの再臨を待望している。キリストは天から来られ、裁きを行われる。そして私たちは最終的な救いに入れられる。現代のクリスチャンは、キリストの再臨と裁きをきちんと考えているのだろうか。死んだら天国に行く。これで済ませてしまうことはないだろうか。本来終末信仰は信仰者に力を与えるのではないか。現在では終末の到来は絵空事に見えてしまう。終末信仰を信仰者の力にするのは簡単ではないが、大きな課題だと思う。
  • 終末、聖書によればそれは神の怒りが現れるときである。そして救いは、この神の怒りからの救いである。教会では罪の赦しが語られる。僕も語ってきた。終末の時、人々は神の裁きの前に立つ。クリスチャンはイエス・キリストによる救いを得ているので、安心して神の前に立つことができる。非キリスト者は、このような神の裁きがあるなんて信じていない。
  • 僕は信仰に入る前、自分の罪に対する神の裁きを感じた。その時、神は今自分を裁かれるのではないかとの切迫感があった。それで赦しを求めて洗礼を受けた。終末における罪に対する神の怒りを思っていたわけではない。
  • 終末を思う感覚と神を畏れる感覚は等しいのではないかと思わされる。神を畏れ敬うという感覚は信仰者である我々も弱いのではないか。その弱さが、終わりの日の神の裁きを信じるのを妨げているように思う。終末信仰を妨げているのではないか。
  • だからといって、終末における神の裁きを強調して人々を救いに導くというのは、脅迫的で健全な伝道とは思えない。聖霊に導かれて、終末信仰を力づよく語る言葉を与えられたい。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か。
  • <御父>罪に対する神の怒りを終わりの日に現す方。
  • <御子>罪に対する神の怒りから私たちを救う方
  • <御子>やがて天から来られる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>偶像から離れ、生ける神に仕えること
  • <勧め>御子の来臨を待ち望むこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、テサロニケ教会の人たちは、御子が天から来られるのを待ち望みました。私も待ち望みます。私は賛美をすることによって待ち望む心を与えられたいと思います。「ラッパの音と共に彼が来られるとき、私は彼のうちにある者として認められますように。キリストの義だけを身にまとい、咎のない者として、御座の前に立つことができるように」と賛美します。終末を信じることは、理屈だけではなく、心で信じることが大切と思います。終末を心で信じるために、終末のことを歌う賛美を賛美したいと思います。賛美が、私の心を信仰へ導くことを願います。
  • また終末を力強く語る言葉を与えてください。

讃美歌280の英語の歌詞

When he shall come with trumpet sound,
O may I then in him be found,
dressed in his righteousness alone,
faultless to stand before the throne.

On Christ, the solid rock, I stand;
all other ground is sinking sand,
all other ground is sinking sand.

見ぬ世にうつりて まみゆるそのとき
主の義をまといて みまえに立たまし

わがきみイエスこそ すくいの岩なれ
すくいの岩なれ

☆与えられた導き
・My hope is built on nothing else (わが身の望みはただ主にかかれり)で神を賛美する。しばらくこの賛美を繰り返す。

・終末を力強く語る言葉を与えられるように祈る。